sk0010 「どて」と「Easy」(July 15, 2005)
JR多賀駅そばに「親不孝通り」という飲み屋さん通りがあります。その通りのお店人たちは「一番街通り」と言ってるようですが、通じるかどうか?「親不孝通り」なら酒飲みならすぐ分ります。
その親不孝通りの真中あたりに「どて」という飲み屋さんがありました。ママさん一人でやっている店で、K工場内の研究所分室に勤務していたいつの頃からか、行き始めました。同じ研究室の人、K工場の人、そばのT工場の人など、常連さんが沢山居ました。常連さんと会うという酒飲みの楽しさは、このお店で初めて知りました。
同じ研究室のS.K.さん、原子力関係の施設に行っているKatoちゃんは、もう生活の一部で毎日通っているようです。ママさんのご主人が亡くなる前に「どてなべ」をやっていて、店の名前はその名残ということでした。ママさんには当時小学生の娘さんがいて、常連さんにとても可愛がられていました。
私がギターを弾くということを知って、クラシックギターをお店に置いていった人も居ます。貫禄のある年配のお客さんとたまに行き会いましたが、T工場の工場長ということでした。ママさんが日立の方のお店に居た頃からのお客さんだそうです。工場長といえば工場で一番えらい人で、普通なら一人で飲み歩くなどとても考えられません。
やはりママさんの人柄なのでしょうか、男女に関係なくお客さんが集まって、とても和やかな雰囲気です。ときどきはギターを弾いて常連さんの歌の伴奏などをし、とても楽しかった想い出があります。
いつ頃だったかもう忘れましたが、隣の物置小屋のような建物からの出火で「どて」が延焼してしまいました。ママさん家族は二階に住んでいたのですが、幸い営業時間中で、Katoちゃんが二階から犬を連れ出し、ママさんと外で店が燃える様子を呆然と眺めていたということです。
外観ではそんなに分らないのですが、二階は住めるような状態ではなかったようで、お店のドアにはママさん宛ての「〇〇〇さん連絡して下さい、住む家あります・・・・」という紙がしばらく貼ってありました。
その後たまにママさんを見かけましたが、お店はやっていないようでした。「店をやるなら、地元の名古屋で・・・」と言っていました。娘さんが中学校を卒業するまでは居たようだったのですが、その後はどうなったか分りません。名古屋に帰ったのでしょうか。
当時の常連さんたちは、当然ながらその後ばらばらです。たまに飲み屋さんで会ったりすると、戦友にあったようにとても懐かしく感じます。
研究所からK工場に転籍してから、設計部の先輩に連れられて鮎川町のタクシー会社の隣にあったスナックに入ったことがあります。ママさん一人のお店で、お客が居ないときはいつも小説を読んでいるようでした。
先輩に連れられて何度が行った頃、親不孝通りにお店を引っ越すと聞きました。何と、場所は「どて」延焼の出火元の物置小屋だということです。
新しくできたお店は「Easy」という名前のスナックです。お店は変わってもママさんはちっとも変わりません。お客が話しかけなければ、いつまでもだまっています。それでも間が持つのですから不思議なものですね。
何となく因縁のようなものを感じて、「Easy」にはしばらく通い、今でもたまにお世話になっています。
なぜか想いだしたので、書いてみました。年をとったのかなぁ。
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