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■私とギターの歴史
(私とギターの歴史:中学生~50代)(February 20, 2003)
●ギターとの出会い(中学~高校の頃)
●工場の軽音楽部に入部、ジャズとの出会い(22才の頃)
●憧れの名器、ギブソンとの出会い(24才の頃)
●ただ何となく、ギブソン(25才~)
●部対抗のど自慢大会と、くまさん(~40才くらい)
●ギブソンのオーバーホール(45才くらいかな)
●日本産業音楽祭(その1)、初参加(40代半ば)
●日本産業音楽祭(その2)、大賞受賞(40代半ば~50代)
●アドリブ練習会(50代~)
●ボランティア演奏(50代~)
私とギターの歴史(中学生~50代)(February 20, 2003)
Label「ギターとの出会い」
●ギターとの出会い(中学~高校の頃)
最初にギターと出会ったのは、中学校のバレー部の送別会で、部員の家を訪問したときです。友達が単にピンピンとつま弾くだけですが、何と良い音がするものだと一種のカルチャーショックでした。それ以降ずっと良いな・・・と思っていましたが、貧乏家庭ではそんな高価なものが買えるわけはなく、時々楽器店でながめるだけでした。
そんな私の姿を知っていたのか、高校の頃、次姉が勤め先から安物のクラシックギターを貰ってきてくれました。お礼にみかんを5、6個あげたそうです。
正に初めて恋人ができたようなもので、毎日夢中で練習したのを覚えています。山口県の高校を卒業して茨城県日立市のH製作所に就職するとき、そのギターを大事に布団と一緒に布団袋の中に詰めて送りました。日立市油縄子町(現在鮎川町)の独身寮に着いて、布団袋を開いてギターを取り出して、さて一曲と始まろうとしたら、何か引っかかるような音です。
改めてギターを見てみると、ボディーの表板が割れて、凹んでいました。やられたと思いましたが、後の祭りです。何とか修理をと、鉛筆を程よい長さに切ってボディの中にいれてみると、ちょうど良いつっかえ棒です。ボディの表板は割れてはいますが、鉛筆2本で凹みだけはなんとかなり、音はちゃんと出るようになりました。外見は気にせず、それからずっとしばらくこのギターが私の愛器となりました。ネックの表面が指の跡で擦り減って、今では使い物になりませんが、何となく捨てることができず今でも押し入れの中に眠っています。
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Label「工場の軽音楽部に入部、ジャズとの出会い」
●工場の軽音楽部に入部、ジャズとの出会い(22才の頃)
就職して2年が経ち、3年目に会社の専門学校に1年間行って戻ってきた頃、日立駅そばのH工場の軽音楽部からお誘いがありました。これが本当の私のギター人生の始まりです。
それまではクラシックギターでクラシック音楽、ポピュラー、はったりのきくところでフラメンコなどを一人でやっていましたが、軽音楽部はビッグバンドで、電気ギターです。中古のギターを買いましたが、今で言うエレアコ(エレクトリック・アコースティック・ギター)で、俗に言えばエレキの範疇とも言えますが、エレキという言い方はあまり好きではありません。洒落て言えば、「ジャズギター」です。
ジャズというものに初めて接しましたが、何とアドリブというカッコ良いことをやっているではありませんか。すっかりはまってしまい、できもしないのに、真似だけはやったものです。当時はダンスパーティーが盛んで、シーズンになると、寮主催・組合主催のダンスパーティーが週に2~3回開催されていました。
軽音楽部のコンボに誘われ、初めてダンスパーティーのバンドに行ったとき、何と楽譜がありません。アドリブばかりではなく、ちゃんと曲毎にテーマが決まっているのですが、コード進行は分からず、ただ適当に弾いているしかありません。回数を重ねると、メンバーのやる曲目が大体分かってきますから、キーを確認して終わったあとは譜面作りです。この頃からのくせが抜けず、今でもせっせと譜面作りに励んでいます。譜面さえあれば大抵の曲は即興でもできますが、知っている曲でも譜面がないと弾けません。
逆に知っている曲は弾けても譜面が読めない人も居ますが、本当の音楽はやはり譜面に頼ってはいけないと、私にはできませんが、心の中では思っています。
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Label「憧れの名器、ギブソンとの出会い」
●憧れの名器、ギブソンとの出会い(24才の頃)
フラメンコもできる適度なクラシックギターと良いジャズギターが欲しいと思い、ギター仲間に紹介され、水戸の楽器店に物色しに行きました。フラメンコギターは10万円以上です。高いなあ。今はつぶれてしまいましたが、茨城楽器という店があり、ギブソンが置いてありました。ギブソンと言えばジャズギターの名器で、ジャズギタリストのあこがれです。その頃レコードから流れてくるジャズギターの音色は、ギブソンのギターと、フェンダーのアンプ、ツインリバーブの組合せと決まっていました。
少し触って、つま弾いてしびれていると、店の主人が「持っていって良いよ」と簡単に言います。「え?え?」給料が2~3万円の頃、良く覚えていますが、一番安いアップライトピアノと同じくらいの値段、18万円くらいです。楽器の値段は今も大して上がっていませんが、給料を貰ったらまず借金を返して、月半ばでまた借金してという当時の生活の身ではとても手が出るような金額ではありません。
それでも貸してやるというので、有り難く拝借して帰ってきました。さて、次のダンスパーティーで早速試してみましたが、こんな素晴らしい楽器は一度手にしたら絶対に離せる訳はありません。今までの中古ギターではできなかったことが、楽器が変わっただけでスイスイとできるような気がします。レコードと同じ音(音だけです!)が出るのに感激です。
これは楽器屋のおやじに計られたと気がつきましたが、もう気持ちだけが先に行っています。後先も考えず、実家が引っ越すからという名目で組合から10万円借金し、2万円ほどポケットに入れ、残りを頭金にして月賦の始まりです。それまで持っていた中古のジャズギターは見るのも嫌になり、寮のギターを弾く友人にただであげてしまいました。
実はこの頃失恋で意気消沈していて、お金がなければデートをしようにもできない、と無理矢理耐乏生活に追い込んだようなところがありました。当然ながら、クラシックギターが買えたのは、何年も後になってからです。
なお購入した楽器は、Gibson ES-125C というモデルです。古いギブソンではGibson ES-175 というモデルがプレミアムもついて異常な人気です。ES-125Cはピックガードに少し値段が安いものが使われていたり、ポジションマークがシンプルだったり飾りの部分が違うのですが、ギター本体はES-175と全く同じということなので、かなりのギターと言えます。
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Label「ただ何となく、ギブソン」
●ただ何となく、ギブソン(25才~)
楽器は申し分ないので、後は腕だけです。こればかりはどうにもならないですね。ジャズの理論書をときどき見て、その時は少し分かったような気になるものの、理論ではジャズは弾けません。もともと昔の誰かがやったアドリブを分析してみたら、こういう理屈が成り立つ・・・というところからできたのが理論ですから、理論なんて大事なことではないということも言えます。
しかしそれでやってみた結果はでたらめな音楽で、自己満足に過ぎません。「理論なんて・・・」は超一流の天才的なプレーヤーの言うせりふです。
それでと、たまに理論書を引っ張り出してはみるものの、消化するには至らず、いたずらに現在まで年を重ねています。
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Label「部対抗のど自慢大会と、くまさん」
●部対抗のど自慢大会と、くまさん(~40才くらい)
H工場では毎年春の祭典として、小平会館で部対抗のど自慢大会が開催されていました。伴奏は会社の軽音楽部のビッグバンドです。生バンドですから、バンド自体の練習、出演者との音合わせ、リハーサル、本番ととても大変ですが、音楽的にはすごく充実していました。
のど自慢の伴奏ですから、当時は演歌が多かったですね。年々演歌系の曲は減って、ポップス系の曲が増えてくる傾向はありました。プロのミキサーマン達が来て、このバンドはドラムとギターが良いですねと言われ、単純に喜んではいましたが、本当かな?というのが当時の偽らざる気持ちです。
そのうちに、元プロのバンドマンが我々のバンドに遊び方々指導に来るようになりました。ひげ面なので、通称くまさんという方で、ゲイスターズとかいうバンドでアルトサックスを吹いていたそうです。
我々のバンドとくまさんとの運命的な出会いです。
初めて一緒に演奏したころ、リズム感がまるっきり違うのにびっくりしました。ドラムとベースのリズムに対し、遅れに遅れ、とても一緒にできたものではありません。時々途中で演奏を止めてしまうのですが、我々のリズムに合わせられないということでした。幾らなんでもあれは絶対におかしい、とメンバー同志で話していました。ところが、録音したテープを聞いてみると、遅れに遅れていると思っていたサックス演奏に全く違和感がないのです。
今では良く分かりますが、我々の方がおかしい、先走っているということだったのです。遅れ気味のリズム感というのはジャズでは極めて大事ですが、今でも難しくてできません。
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Label「ギブソンのオーバーホール」
●ギブソンのオーバーホール(45才くらいかな)
ある年の春の祭典が終わった後、録音したテープを聞いていたくまさんに言われました。「keiちゃんの演歌は素晴らしい、アマチュアにはない独自のリズム感を持っている。しかしギターの音が狂っているなあ。」バンド仲間では私は「keiちゃん」と呼ばれています。「keiちゃんの演歌は素晴らしい・・・、演歌ならkeiちゃんの演奏を見習うこと・・・」はこの後、ことある毎に聞かされる言葉です。
それはともかく、ギターの音が狂っている・・・、ネックが反っており、12フレットが1オクターブからずれているのです。これは重大、春の祭典に影響しないシーズンオフに、オーバーホールして貰うべく、日立の映光社にギターを持っていきました。映光社のお兄さんは、ギブソンを見て「これは・・・」とさすがに良いギターだと分かっています。兎に角東京に送るからということで、ギターを預けました。
東京の修理業者からは、なかなか真っ直ぐにならない、普通ならえいやっとやってしまうが、このギターではそうはいかない、最終的にはアメリカのメーカまで送るようになるかも知れない・・・等々連絡が入ってきます。映光社のお兄さんにも文句を言いながら、結局半年と10万円かかってしまいました。お金はともかく、次の春の祭典にはとうとう間に合いませんでした。
オーバーホールを依頼したつもりだったのですが、ネックが真っ直ぐになっているのと、頼んでいたマイクの交換をしているだけで、ボディの傷はそのまま、文字がはげているボリュームのつまみもそのままです。新品同様で帰って来ると想像していたので、少しがっかりしましたが、どうもギブソンのギターはできるだけオリジナルの方が価値があるということのようです。
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Label「日本産業音楽祭(その1)、初参加」
●日本産業音楽祭(その1)、初参加(40代半ば)
くまさんに指導して貰うようになり、ビッグバンドはやっぱりカウント・ベイシーということで楽譜を取り寄せて練習が始まりましたが、良いのか悪いのかさっぱり分かりません。くまさんにおだてられながら、3年くらい経ったでしょうか、「お、カウント・ベイシーってこんな音楽だったのか!」というのが練習を続けてきたメンバー全員におぼろげながら分かってきました。
その頃毎年神奈川県で行われている日本産業音楽祭に出演しないか、との話が舞い込んできました。クラシック、吹奏楽、ロック、ジャズなど色々な分野の音楽の関東地区社会人のコンクールといったもので、H製作所も協賛しています。
恐る恐る最初の出演です。中央の社会人アマチュア・ビッグ・バンドのレベルを知ることになります。アマチュアとは言え、さすがに中央のバンドはすごい迫力で、田舎バンドとの差を実感です。くまさん率いる我々のバンドは、うねるようなサックスの音が素晴らしいと誉められました。審査員は日本を代表するあのビッグバンド#&bのリーダー原信夫さんと、ジャズ評論家で著名な本多俊夫さんです。
有り難いことに審査員から各バンドにコメントを頂けます。本多俊夫さんからは、1,2,3,4の音符はできるだけ長く伸ばすようにというコメントを頂きました。ギターは2,4の音を切り過ぎると言われました。この言葉がそれ以降の私をどんなに悩ませたことか。リズムギターの深みにはまっていくきっかけでした。
ところで、H工場の軽音楽部のビッグバンドは、ウインド・マシーン・オーケストラ(WMO)と名づけられました。風車とか扇風機とかではなく、米音楽界の俗語で、「サックス吹き」という意味だそうです。Wind Machineという超アップテンポの難曲があり、これができたらバンド解散ということになっています。
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Label「日本産業音楽祭(その2)、大賞受賞」
●日本産業音楽祭(その2)、大賞受賞(40代半ば~50代)
毎年参加していると、ビッグバンドとはこういうものだと、各バンドのレベルも分かってきます。日本一のアマチュア・ビッグバンドは、ずっと東京都庁スイング・ビーツです。これはプロの先生方も認めており、あちらこちらの音楽祭で軒並み賞をとっているとのことです。その他の中央のバンドもみんな素晴らしく、茨城の田舎のバンドのレベルの低さを実感です。
それでも前年の批評を返上すべく練習を続けていると、少しづつはレベルも上がるのでしょうか、ある年思いがけず大賞を受賞してしまいました。採点は点数制で、二人の審査員の持点5点の合計が9点以上だと、大賞です。大賞を貰えるのは参加バンドの1/3くらいでしょうか。それでも田舎のバンドとしては正に画期的なことです。
このとき演奏した2曲のうちの一つは、"Big・Swing・Face"というブルースコードの軽快なアップテンポの曲です。本多俊夫さんからは
「今回が今までで一番良かったんじゃないですか、ソロイスト達のブルースコードのアドリブが素敵だし、何しろみんながのりまくっている。少しはあらもあったけれど、探すのをやめました。原さんどうですか・・・。」
とお褒めの講評を頂きました。普通は講評は一人ですが、次いで原信夫さんです。
「うまいバンドはいくらでもあるけれど、こんなにスイングするアマチュアバンド、聞いたことないです。ピアニストもギタリストも本当に良いアドリブをしてましたし・・・、これがジャズの真髄です。」
と信じられない大絶賛です。スイングする・・・"スイングしなけりゃ意味が無い"という曲があるくらい、最高の賛辞です。
実はこのとき初めて、大きな舞台で1コーラスのアドリブソロをやりました。アドリブといっても前もって覚えていたフレーズで、しかも最後の8小節あたりからメタメタになったのですが。ギターのアドリブを誉められたのは初めてです。演歌に関してはくまさんから誉められっぱなしですが、アドリブでは何も言ってもらったことはありません。
ともあれ、この頃から茨城県でも中央で大賞をとったウインド・マシーン・オーケストラだと、知る人ぞ知るバンドとなり、茨城放送などでもたまに出演の声がかかるようになりました。産業音楽祭にはずっと出演していますが、音楽祭大賞(9点)か、音楽祭賞(8点以下)かのちょうど境界あたりで、選曲の良いときは大賞を貰えます。
一昨年(2001年)はきっと間違って?、大賞と委員長賞とを併せて受賞してしまいました。委員長賞は10点満点で、あのすごい東京都庁スイング・ビーツと並んでの受賞です。見方によっては日本一のアマチュアビッグバンドということになります。
昨年(2002年)は一転、音楽祭賞でした。力があるのか、ないのか分からないバンドですね。ずっと審査員をしていた本多俊夫さんが昨年亡くなり(合掌)、原信夫さんも欠席で、昨年の審査員は2名とも新しい人でした。下手ながらもスイングしているという、我々のバンドの持ち味は評価して貰えなかったようです。同じプロでも、人によって見方、感じ方が変わるということでしょうか。この時の審査員の一人が日本のジャズギタリストの草分け、尊敬する沢田駿吾さんでしたが、ギターのことばかり言っているのには少しがっかりしました。
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Label「アドリブ練習会」
●アドリブ練習会(50代~)
H工場に在籍しているピアニストのT.Nさんとは、ずっと以前からの音楽仲間で、現在もWMOで一緒です。ビッグバンドの中のピアノとギターは、ドラムスとベースと併せてリズム隊の位置づけにあります。この4人がスイングするかどうかが、ビッグバンドの一つの決め手です。
リズムも奥が深く、とても面白いですが、見方によってはジャズの真髄であるアドリブ演奏の機会は少ない訳で、つまらないとも言えます。リズム隊の4人は、これだけで単独のコンボとして演奏できることが必須ですが、ビッグバンドの中では必然的にコンボとしての練習はほとんどできません。
という訳で、T.Nさんの発案でアドリブ練習会なるものを発足させました。最初はT.Nさんと私の二人で、多賀の青少年センタで練習を開始しました。やっぱり練習するとしないとでは大違いで、最初のころは早いテンポの曲をやると、アドリブ演奏はますます早くなってメタメタでした。"Band In A Box"という素晴らしいパソコンソフトがあり、ドラム、ベース等の不足のパートは全て自動的に演奏してくれます。このソフトはコードさえ打ち込んでやれば、任意の楽器のアドリブソロまでやってのけるという優れもので、人間が入らないパソコンだけの演奏が一番良い、ということになります(苦笑)。
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Label「ボランティア演奏」
●ボランティア演奏(50代~)
アドリブ練習会も最近ではメンバーも増え、K工場技術部のM.Hさん(As)、系列会社のS.Yさん(Bass)、O工場のT.Tさん(Tb)、H.Kさん(Drms)が加わって6人で練習しています。練習会場は大みかコミセンで日曜日の午前中です。コミセンは利用者登録をすると、1000円?/年くらいで利用できますが、草刈り、発表会、新年会等の行事への参加が義務づけられます。
大みかコミセンでの最初の出演は、去年(2002年)の新年会です。率先してアトラクションのバンドを引き受け、演奏を始めたところ、大喝采です。それはそうでしょう、日本一?のメンバーが何人も居るのですから・・・。
ジャズ演奏ものりのりでしたが、1000曲くらい載っている演歌の曲集でのリクエスト演奏がまた大好評でした。これが縁で、昨年(2002年)の大みか地区商店会の夏祭りに出演しました。今年(2003年)の新年会にはピアノのT.Nさんと私が出席しましたが、勝手に準備をして演奏してきました。コミセンでの発表会も2年になりますが、相変わらず評判は良いようです。
老人ホームでのボランティア演奏も今年(2003年)2回やりましたが、いずれも好評です。1回目はピアノとギターのみです。主として日本の古い歌謡曲、童謡です。赤い本(日本の歌が1000曲くらい載っている曲集、表紙が赤い)さえあれば、ほとんどのリクエスト曲を即興演奏です。
2回目はアルトサックスのM.Hさんも加わって、3人で演奏しました。次はいつかと、せかされています。
自分で楽しむだけでなく、他人に楽しんでもらえるのは嬉しいですね。これからもずっと続けるつもりです。
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